ウーファができるまで③
救いの手は突然やってくる

2019年夏。なによりも夢を現実にするには先立つものは資金です。
恭子さんと友美さんは、共同食品加工所の建設のプランで、十日町市ビジネスコンテスト「トオコン」に挑戦しました。

 

書類審査を通過し、通過者で行われる合宿に参加。最終プレゼンに向けての準備が始まりました。

 

 

その合宿でいただいた指摘は「ターゲットを決めろ」でした。

 

「共同食品加工所を使ってみたい人は、例えばいま委託加工で干し芋を作っているかなちゃん(佐藤)はどうだろう。委託加工の現状についても聞いてみたいね」

同時に、友美さんが発したのは
「それに最近、かなちゃん元気がないし」でした。

 

「そうだね、最近のかなこはブラック通り過ぎて、白くなってるね…」と恭子さん。

そうです。その頃の私は灰と化していました。

 

その前年、長年続いた干し芋加工も軌道に乗り、委託加工をやめて、自身の加工所を十日町市に建設する計画を進めていました。加工所を中心に、農業、くらし、子育てを地続きにできるような場づくりをしたい。誰でも子連れで働けるような…。

 

そうして、多方面から資金的な支援もいただき、集落に説明をし、設計もでき、着々と進んでいましたが、加工所をめぐり住民トラブルが発生し、建設は着工直前に白紙になりました。辛い1年でした。

 

振り返れば、家族との時間をはじめ、多くのものを犠牲にしていました。

 

 

農地がある地域まで通い、日々の農作業をしながら、ひと、もの、お金の管理をしつつ、地域の人たちともちゃんとコミュニケーションし、一方こどもや家族ともちゃんと向き合う。

 

無理でした。体力的にも精神的にも、無理をしすぎた結果でもあったと思います。私がやりたかった農業は、これだったのだろうか…。

 

移住してからの8年間、男社会の農業で、心ない言葉や辛い出来事にも耐え、自分の夢のために、誰よりも努力し勉強し挑戦し続けてきた自負だけはありました。なのに、そのときばかりは「もう農業は、辞めたい」と思っていました。

 

 

応援や期待にも、力不足で答えられなかった。頑張るのはもうやめて、少しずつ手放していこうと。

 

「でも…」そんなとき、ちょっと待ったと言わんばかりに訪れた次女の妊娠。

 

強制的に立ち止まらざるを得なくなり、長女妊娠のときは無理に続けた農作業も、今回は休み、「私はなんのために農業をするのか」「どんな農業がしたかったのか」、毎日問い続けました。

 

「農業を通じて、しあわせになりたい」「自分の人生を歩むために、十日町に来た」「家族と山で笑い合うのが夢だった」

 

「もう一度、立ち上がって歩いてみたい。」
心が少しずつ立ち直り始めたころ、恭子さんからの一本のメールが鳴りました。

 

 

new article